胡蝶の夢

〜参〜


「それ以来、法師様は里に住むようになったんだけど……でも男手一つで赤子を育てるのは大変だろう? 結局、里の女達が寄ってたかって犬夜叉の世話をしていたようなもんだったよ。ここでは、半妖だからって差別するような者はいないからね」
 退治屋の里では、雲母のような善良な妖怪を戦力にすることは珍しくない。半妖に対する偏見も、普通の人間達に比べれば、ほとんどあって無いような程度のものだった。おそらくそれこそが、弥勒がこの里に居を構えた理由だったろう。
「ふうん? じゃあ、二人はいつ結婚したの?」
 無邪気な少女の質問に、退治屋の里を束ねる男勝りな統領は、いくぶんたじろいだように目を逸らした。
「………あたしの方が、押し掛けた」
 ぽつりと呟いた珊瑚の目元が、うっすらと紅い。
「だ、だってあのままじゃ、いつ里の女に手を出すかわからなかったしさっ。そうなってから慌てて引き剥がしたら、統領の横暴も良いところじゃないかっ!」
“珊瑚ちゃんって………可愛い”
 今となっては二十以上も年上の女に対して使う言葉ではなかったが、それがかごめの正直な気持ちだった。
「それにしても………」
 かごめは小首を傾げて呟いた。
「何か弥勒様、すっかりいい人になっちゃってるねえ?…昔はあんなにオヤジだったくせに、今はセクハラしないんだ?」
「…もう、する必要ないからだろ」
「は?」
 風穴が消えてからの弥勒は、あの厭世的な部分が影を潜め、随分と前向きになった。刹那ではなく日々を刻んでいこうとする姿勢は、以前には見られなかったものだ。無論、かたわらの幼い犬夜叉の存在がそれを促していた事は言うまでもないが。
 同時に、過度の女遊びもしなくなった。
「………かごめちゃん、本当に気付いていなかったの? 法師様のあれは、女に対する牽制だろ?」
「けん…せい……?」
 珊瑚は苦笑した。
「あの見栄えで、あの声で、あの物腰で口説かれてその気にならない女なんて、それこそかごめちゃんくらいだったと思うよ。だからいい雰囲気になると、わざとそれを崩してたんじゃないか。あたしみたいな馬鹿な女が本気でのめり込まないようにね」
「 ──── 」
「まああたしも、途中から薄々気付いてはいたけどねぇ………口でなんて口説こうと、あの人は結局どの女とも子供を作らなかったし」
 言われてみればその通りだった。
 確実な避妊法の無いこの時代に、野放図に女を抱けば必ず結果を伴うはずだ。弥勒の日頃の行状を鑑みると、極端な話、ダース単位で認知を求める女が押し掛けてきてもおかしくはない。だが一緒に旅をしている間に、そんな事件は一回も起きなかった。
「法力がこんな事にまで使えるなんて、所帯持つまであたしも知らなかったけどさ…」
「どういうこと?」
「…かごめちゃんにこういうこと言ってもいいのかな?…うーん、今更か……」
 この少女とはずっと一緒に旅をしてきた。
 珊瑚にとってかごめは、生死を分ける戦いの日々の中で、互いの中の綺麗なところも汚いところも、強くしなやかな魂も狡くて臆病な精神も、何もかもをさらけ出して付き合ってきたかけがえのない『仲間』なのだ。いまさら隠し事をしても始まらない。
「法師様、多分子種が胎に根付かないように、いつも流していたんだと思うよ。抱かれた女の方は気付かなかったろうけど………」
 そう語る珊瑚もまだ、子供に恵まれていない。
「珊瑚ちゃん、結婚してどれくらい?」
「犬夜叉が二歳の頃だから…六年、かな?………多分法師様、子供作る気無いんだよ。理由はわかってるんだけどね」
 寂しそうに、珊瑚は微笑んだ。
「あたしもう三十七だし、いいかげん跡取り産まないとっては思うんだけどさ…。あの人に子種が無いなら、里の手練れを選んで子種を分けてもらってでも産めって、事情を知らない年寄り達はうるさいんだ。でもやっぱり、あたしは法師様の子以外は、欲しくないよ…」
「珊瑚ちゃん………」
 少女のころの憧れをそのままに、幸せな結婚を果たしたと思った友は、未だに深い苦悩を抱いてそれでも懸命に毎日を生きている。
「それ、弥勒様に言ってみたの?」
 珊瑚はゆっくりと首を振った。
「………怖いんだ。言って、否定されるのが」
 弥勒は、単に成り行きで夫婦(めおと)の契りを結んだだけなのかもしれない ──── それは珊瑚の心の奥に、ずっとわだかまって消えない疑いだった。
 統領の自分が強引に事を進めたから、己の保護する稚い半妖のこの里での居場所を守るために、あの捕らえどころのない法師は気持ちを押し殺して自分に付き合ってくれているに過ぎないのではないか? ──── そんなことを考えれば考えるほど、どうどう巡りの迷路に落ちていく。
「じゃあ、あたしが訊いてみようか?」
 ことさら明るく言い放ったかごめの言葉に、戸惑いながらもうなづくしかない珊瑚だった。



 そのまま数日、かごめは里に滞在した。
 何をするにも捻挫が治らなければろくに歩けないのだから、屋敷の周辺でぼんやりしているしかないのだが。
 退治屋の里には、引きも切らず妖怪退治の依頼が舞い込んでくる。一族の統領として采配を振るい、時にはみずから手練れを引き連れて仕事に向かう珊瑚は、いつもとても忙しそうだ。それに反して法師の方はというと ──── 少なくともかごめがやってきてからの数日、彼が仕事らしい仕事をしているのを見た事がなかった。髪結いの亭主よろしく、日がな一日子供の相手をしているか、隣りの小さな寺で雑事を片付けているのが関の山だったろう。
 一度、どうして里の仕事を手伝ってもらわないのかと屋敷に出入りする退治屋の男に尋ねたことがある。弥勒の法力があれば、風穴など使わずとも充分に妖怪に対抗できるはずなのに。
『ああ…あのお人は重石みたいなもんですからね。法師様がのんびりしていると、みんな何となく安心するんですよ。でも本当に厄介なことが持ち上がると、ちゃんと収めて下さるってのは皆知っていますから。里が再建されて軌道に乗るまでの一番大変な時期に、法師様がどれだけ力を貸して下さったことか……』
 どうやら自分達の力で出来る事は極力自分達で片付ける ──── というのが統領の、ひいてはこの里の方針らしかった。
『それに今でも、時々ふらっと姿を消す事があってねえ…。まあ犬夜叉(ちび)がいるから、帰って来ないって心配はないんだが………何て言うのかね、やっぱり里に根を張る気がないのかもしれませんや。統領と所帯持っててそれはないだろうって言い方もできるが、あの人にはその方がしっくりくる気がするしなあ……』
 里の者達は案外しっかり、この法師の本質を見抜いているのかもしれない。
 ひとつ所に留まれない、透明な風のような存在 ──── けれど吹き過ぎる時に、残された者の心に決まってさざ波を立てていく罪作りな男だったと、旅の途中で出逢った弥勒の知己が言っていたのを思い出す。
“何だかなあ…… ”
 ため息をついて、かごめは屋敷の門をくぐった。


 少し歩くと、不意に開けた場所に出た。
 十人ばかりの少年や少女が、見慣れない武器を手に思い思いに身体を動かしている。
「あ……」
 その年上の少年達に混じって、草色の水干をまとった半妖の小柄な姿があった。
 小さな犬夜叉はいつになく神妙な面持ちで、教師役である退治屋の女の言葉と動作にいちいちうなづいている。
「おや、かごめ様。もう足はよろしいので?」
 しゃらんと錫杖を鳴らして、法師が涼んでいた木陰から立ち上がった。
「うん。湿布が効いて、痛みも腫れも引いたから、ゆっくり歩く分には大丈夫だよ」
「それは良かった」
「みんな、こんな小さいうちから訓練してるんだね? すごいなあ………」
 かごめは感心したように、その十歳前後の子供達の訓練の様子を見つめていた。
「ええ。だからこそ、退治屋の里の者達は、強い妖力を持つ妖達と対等に渡り合えるんですよ。本来この里の人間は、かごめ様や私のような破魔の力を持っているわけではありません。けれど絶ゆまぬ努力と訓練で、法力に代わる手段を手に入れたのです」
 弥勒は修練を続ける養い子の方を見遣って呟いた。
「朔の夜が訪れるたびに、あの半妖は己の無力さに歯噛みしていました ──── なまじ普段の妖力が大きいだけに、ただの人間の身体になった時の己の不甲斐なさが目に付いて仕方なかったのでしょうが………」
 漆黒の髪と瞳をし、人と同じ爪と歯と耳しか持たなくなった朔の夜の犬夜叉。
 彼はいつも、その状態の自分の弱さをくやしがっていた。怖がっていた ──── かつては四魂の玉で人間になりたいと願っていたくせに、そうなる夜が訪れるたびに戸惑うのは、ずいぶん矛盾していることだと思ったものだが。
「私が犬夜叉を育てるのにこの里を選んだ理由のひとつが、これです」
「え?」
「牙も爪も無くても、人は戦えるのだと教えてやりたかった。妖力を失った半妖がどんなにがんばっても、本来の力とまったく性質の異なる法力や神通力を得られるはずはありません。けれどこの方法なら、本人の努力次第で技を身に付けることが可能ですから」
「 ──── っ!」
 今まで彼女は、そんな事を考えてもみなかった。ずっと犬夜叉と一緒に闘ってきたというのに。
 そんな弥勒の思慮の深さに、守りきれなかった者を悼む想いがほの見える気がして、かごめはまたため息をはいた。

 この世界の犬夜叉はすでに ──── 桔梗と共に逝くことを選んだのだ。

「………かごめ様?」
 うつむいて黙り込んでしまった少女に、法師はそっと声をかけた。
 けれどかごめはそれにも気付かぬ様子で、じっと物思いにふけっている。
「…………」
 もう、終わってしまったことだ。この世界では、とうに選択は為されてしまった。そしてここの日暮かごめは、元の世界に戻ることを選んだのだという。
“本当にそうなんだろうか?…これは本当に、確定された未来なのかな?”
 ふとそんな思いが脳裏を過ぎる。
『未来は一つではない』
 そんな言葉を、どこかで読んだ記憶があった。無数にある可能性の数だけ、未来は存在するのだと。
 ならば ────
 ならばまだ、彼女にとっては何も始まっていないのだ。この先いくらでも未来を変えるチャンスはある。
 かごめは昂然と面を上げた。
“あたしはあきらめない ──── まだ、あきらめてたまるもんですか! ”
「ねえ、弥勒様。どうして自分の子を作ろうとしないの? もう風穴は消えちゃったんでしょ? 奈落の呪いが子供に受け継がれる心配なんて無いのに」
 唐突に変わった話題に、法師はちょっと目を見開いた。
「 ──── 珊瑚に、聞いたのですか?」
「うん。子供が出来ないんじゃなく、弥勒様がそれを止めてるんだろうって。珊瑚ちゃん、結構気にしてるよ?」
「……そうですね。里の者達も、統領の家に半妖の養い子しかおらぬのでは、困るでしょうな…」
 弥勒の真意を探ろうとするかごめに、彼はやるせない笑みを向ける。
「確かに風穴は消滅しました。もう、祖父の代から続いた呪いは存在しません。けれど私の中には、未だにあの男が残っている ──── そしてそれは意識のずっと奥底で、常に隙をうかがっているような気がするのですよ」
 弥勒とかごめの姿を認めた犬夜叉が、広場の方から嬉しそうに手を振っている。幼い半妖は、その名をもらった叔父に比べてひどく素直だ ──── この養い親と里の者達に、とても愛されて育ったことが傍目にも良くわかる。
「私はかつて三度(みたび)、奈落にこの身を穢されました。一度目は何も知らない幼子の時に ──── その頃の奈落はまだ、後年ほどの妖力も瘴気も蓄えてはいませんでしたから、子供の身でも辛うじて生き延びることができましたが……夢心和尚が記憶を封じて下さらなければ、私はそのまま狂っていたでしょうね」
「 ──── 」
 初めて聞く弥勒の過去に、かごめは口元を両手で覆った。そうしていなければ、とんでもない事を口走りそうだったのだ。
「二度目は、風穴を大蟷螂(かまきり)に傷付けられ、封じられた時でした」
 そう言えばあの頃、弥勒はしばらく一行から離れて夢心の寺で静養していたことがあった。その時は別段不審に思わなかったが、よく考えるとずいぶん不自然だったような気がする。
「三度目の事は、かごめ様も良く御承知でしょう?」
「………うん…」
 瘴気に染め変えられた彼を浄化したのは、他ならぬかごめの破魔矢だった。あの時の惨状を思い出すと、未だに胸が痛む。弥勒だけでなく、珊瑚にとっても犬夜叉にとっても、辛い出来事だった。
「あの時身の裡に注ぎ込まれた瘴気は、風穴が消滅した今でも、私の魂に色濃く残っています。身体の穢れは(そそ)げても、魂魄に刻まれた穢れが完全に消えることは、おそらく無いでしょう ──── 私は、怖いのですよ。かごめ様」
 深淵を切り取ったような漆黒の瞳が、少女を真正面から射すくめた。
「珊瑚が宿した赤子に、この穢れが移ってしまうのが。風穴の呪いが受け継がれなくても、それはおそらく深い『業』となって産まれてくる子を苦しめることになる………」
「法師様っ!」
 先刻から物陰でその様子をうかがっていた珊瑚は、いたたまれなくなって飛び出した。
「珊瑚…?」
「それでもあたしは、法師様の子が欲しい! 他の誰でも駄目なんだ!」
 飛び込んできた連れ合いを抱き留めながら、弥勒は戸惑ったようにその頬の涙を拭った。
「 ──── 後悔、しますよ。珊瑚」
「しても、いい」
「産まれてくる子も、不幸になる」
「そんなのは、子供の決めることだ。親の都合で芽を摘むのは傲慢だよ ──── 第一うちの犬夜叉が、不幸に見えるかい?」
「………いいえ」
 半妖の身にたとえこの先どんな試練が待っていようと、今の犬夜叉は、一人の幸福な子供でしかない。
「あの子を産む時、りんが後悔したと思う?」
「思いません」
 今際(いまわ)(きわ)の彼女の微笑みが、瞼の裏に鮮やかに蘇る。人の子の身で妖怪の種を宿すのがどれだけ大変なことか、わかりすぎるくらいにわかっていたろうに。
「なら、あたし達も大丈夫だよ」
 見上げる気丈な瞳に、揺るぎない決意がみなぎっている。もう、その目に涙は無い。
「まったく………お前様にはかないませんな」
 こんな時は、女の強さとしなやかさを感じずにはいられない。男がつまらない事に思い悩んでいる間に、彼女達はいともたやすく障壁を乗り越えてくる。
「なんだよ、その言い種は………」
「…この世の誰よりもお前を愛していますよ、珊瑚」
 そう言って弥勒は珊瑚の瞼に口付けた。本気でなければ、六年も連れ添ってなどいない。愛してもいない女を(さい)にするほど、彼はこういうことに関して無頓着ではなかった。
「 ──── うん。法師様」
 けれど珊瑚は、その言葉に含まれた言外の意味を、正確に把握していた ──── おそらくは、言った弥勒本人ですら無意識だったその意味を。
“………彼岸の者に寄せる想いまでは、止めようと思わない。だから、これからも一緒に歩いていこう……未来を作っていこう、法師様 ”
 焚きしめた香の薫りを吸い込みながら、珊瑚は鈍色(にびいろ)の袈裟に顔をうずめた。



― 次 ―
 

弥犬前提の弥珊で、しかも過去に奈弥強姦ありっつー三重苦な設定で申し訳なく(爆)。『最初の事件』は『異界』に置いてあります。いろいろ問題あるので隔離(爆)。