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「ところで珊瑚、いい加減『法師様』は止めませんか? 私達が一緒になって、もう何年経つと思っているんです?」
弥勒は照れ隠しのようにいきなり話題を振った。
「え?…だって今更他の呼び方に変えるの、何だか気恥ずかしいよ。里のみんなも『法師様』って呼んでるしさ。このままで良いじゃないか」
「良くありません。『弥勒』と呼びなさい」
「う、あ………みろく…さ、ま」
「声が小さい」
「みろくさまっ!」
「様は結構」
「やだ。付ける」
「珊瑚…まだ言いますか?」
はーっと溜め息をついて視線をさまよわせた弥勒は、かたわらで所在なげにしゃがみ込んでいる少女の姿に、ようやく気付いた。
「かごめ様………そこにいらしたんですか」
「えええっ?」
珊瑚は焦って後ずさった。
“…って、いるわい、普通 。テレポートできればともかく ”
すっかりあてられてしまったかごめは、ふてくされたようにスカートの草を払った。
「あーあ。何か、心配するだけ損したみたい………結局ラブラブじゃん? 二人とも」
「かごめちゃんっ!」
「まあまあ二人とも。犬夜叉が帰ってきましたよ。子供に聞かせる話ではありません」
「父上!………母上も来てたのかっ?」
白銀の髪をひるがえして、半妖はなかば跳躍しながら彼等の元に駆けてきた。
「なあ、かごめぇ。もうあれ、無いのか?…変な干し芋とか」
ひとしきり珊瑚に抱き付いた後、当然のように法師の片腕を占めた犬夜叉は、目線の合った少女に甘えるように言った。
「ごめん、犬夜叉。今朝のでお終いなんだ……」
「ちぇっ!」
軽く舌を鳴らした子供は、ぷうっと頬を膨らましてそっぽを向く。
「これ、犬夜叉」
かごめがリュックいっぱいに持ってきたジャンクフードのほとんどを食べつくしてまだ足りない様子の養い子に、弥勒は苦笑した。
“こんな所だけ、あいつに良く似ている……”
「ねえ、弥勒様」
その様子を見ていたかごめは、意を決したように呟いた。
「あたしを骨喰いの井戸に連れていって」
「 ──── 」
退治屋の里の統領とその連れ合いは、半ば予想していたその言葉に、黙ってうなづいた。
枯れ井戸の脇に、打ち捨てられた自転車が所在なげに横たわっていた。
「何だ?これ?」
黙したまま側の木の幹にもたれている弥勒とは対照的に、犬夜叉はちょこまかとあちこちに首を突っ込んでいる。
興味津々という風情の子供を後ろに乗せて、かごめはひとしきり辺りを走ってみた。
──── かつての村の面影は、殆ど無い。
奈落との最後の戦いで大きな打撃を被った村は、住民が激減した。それでも楓は残った者をかき集め、この井戸を守るように細々と住み付いていたのだが。
その楓も、すでにこの世にいない。
巫女として生涯誰とも連れ添うことなく終わったが、姉に比べれば幸せな一生だったのだろう。死に顔はとても穏やかだったという。
“此処には、あたしの居場所がない………”
御神木のあった場所に空いたクレーターを見下ろして、少女はひとりごちた。
かごめが犬夜叉の封印を解いて、二十年後の世界。
それは無数にある可能性の中の一つ。この先ありうるかもしれない、未来。
─── 犬夜叉が桔梗を、死を選んだ世界。
“ ──── 駄目だ。これは、絶対認められない。こんな結末は認めない!”
かごめは激しく頭を振った。
“犬夜叉の隣りにいるのが必ずあたしでなくてもかまわない。けれど、彼には笑っていて欲しいのだ。あの不器用で寂しがり屋の半妖が、屈託なく笑って生きられる未来であって欲しい………”
辛いのは別れではなくて、犬夜叉の魂が幸せを知らないまま消えてしまうことだ。
『い・や・だ!』
かごめの中で何かが爆発した。
「うわっ?」
反動で荷台の半妖が木立に弾き飛ばされた。
「かごめ様っ?」
異変に気付いた弥勒が慌てて駆け寄ってくる。
その瞬間、骨喰いの井戸が閃光に包まれた。
──── 視野を焼きつくす白い闇。
草色の水干をひるがえした幼い少年の姿が、墨染めの法衣をまとった長髪の法師の姿がその中にかき消える。
否応なく井戸に引き込まれる感覚に、少女は黙って身を任せた。
◇ ◇ ◇
「おい!………かごめ、かごめって言ってんだろ! こんなとこでいつまで寝てんだっ!」
逆光に、見慣れたシルエットが浮かぶ。
「………」
ぐいと抱き起こされて、かごめはようやく気付いた。
緋色の水干。言霊の念珠。腰に差した鉄砕牙。
「犬、夜叉?」
「お前、まだ呆けてんのか?」
自分とさほど変わらない年頃の外見を持つ口の悪い半妖に、泣きたいほどの安堵が押し寄せる。
「犬夜叉だあ……っ。ほんっとに、犬夜叉なのね?」
「あん? 何寝惚けたこと言ってんだよ?…てすとぼけでおかしくなってんのか?」
「犬夜叉………お座り!」
「なっ………」
──── どべしっ!
思いっきり地面にめり込んで、犬夜叉はこけた。
「てめえ、いきなり何しやがるっ!」
「あ…あははは。ごめん、犬夜叉」
だって確かめたかったから。
目の前にいる半妖が、本当に自分の知っている犬夜叉だということを。今ここで、この世界で生きていると言うことを。
「かごめっ、お前なあ…っ!」
半妖の抗議の言葉は、抱きついてきた小柄な少女の嗚咽でさえぎられてしまった。
「かごめ?」
犬夜叉は戸惑ったようにその身体をそっと抱きとめる。
「あたし、犬夜叉のいない世界に行ってたんだ…そこの犬夜叉、桔梗を選んで四魂の玉と一緒に浄化しちゃってて………あたしも元の世界に戻ってた」
「 ──── 」
犬夜叉は少し困ったようにかごめを見下ろした。
「すごく怖かった。寂しかった。あんたが桔梗を選んだことじゃなく、死を選んだのが許せなかった」
射抜くようなきついまなざし。あふれる涙を物ともせず、少女は半妖を真正面から見つめた。
「あたしはね、犬夜叉。あんたが誰を選んでももう気にしない。けれど、絶対幸せにならなきゃ許さないから! ここまであたしの人生巻き込んでおいて、それで不幸なまま死んでいくなんて、冗談じゃないよ!」
苛烈な瞳は、どんな宝玉よりも美しいきらめきを秘めていた ──── それは、命そのものの輝きだ。
「桔梗を選ぶんなら、どんなに浅ましくてもみっともなくても、二人で生きていかなきゃ嘘だ。半妖でも人間でも妖怪でも構わないから、犬夜叉自身が納得できるまで、とことん生きて!」
「かごめ………」
少女の激情に気圧され、事情が呑み込めぬままに、それでも犬夜叉はこくんと頷いた。
「かっ………かごめぇっ! やっと帰ってきたのじゃなっ!」
いきなり背後から抱きついてきた七宝の勢いに、かごめはそのまま犬夜叉を井戸に突き落としかけた。
「おいっ!」
「きゃあっ!」
二人して古井戸に逆戻りしかけたところを、危うく弥勒の錫杖が遮ったのだが。
「やれやれ…とんだ無粋をしましたな、七宝。犬に蹴られて死んでも知りませんよ?」
それを言うなら馬だろう………という突っ込みは取り合えず置いておくとして。
「弥勒様も若いわ………」
「何ですか?それは………」
ぽつりと呟かれたかごめの言葉に、常と変わらぬ不良法師はいぶかしげに首をひねった。
「あ、あははは。あたし、二十年後に行ってたから。そこの弥勒様、しっぽが長くてすっごい男前だったよ?」
「………生憎私は、いまだかつて尻尾を持った覚えはありませんが…?」
「ああ…だから、髪の毛。結わえた後ろ髪が腰くらいまであったの。墨染めの衣にすごく似合ってた」
「…それはどうも。」
法師はふと、幼い頃に死に別れた父親の面影を思い出した。そう言えば彼もまた、同じような風貌の男だったと。
「それでね、珊瑚ちゃんと結婚して、小っちゃい犬夜叉育ててるのよ」
「はあ?…」
「何だ?そりゃ」
話がさっぱり読めずに首をかしげる仲間達に、かごめは屈託なく語り始めた。
“ ──── あれは、夢。胡蝶の夢だ……”
どちらの世界が現なのかは、蝶にも荘周にもわからないままに。
「………んだよっ…全然残ってねえのかよ!」
ぺしゃんこのリュックをひっくり返して未練がましく呟く犬夜叉の隣りで、七宝もまたうるうると瞳を潤ませている。
「わ〜し〜の〜くっきぃー………」
「だから、ごめんってば。たくさん詰めてきたんだけどさ…大体、食べたのは向こうのあんただよ? しょうがないじゃん」
「そんなの、俺じゃねえ」
楓の家へ帰ってきてから、ずっとこの調子だ。幼児と大差ない駄々をこねる半妖に、呆れた巫女はとっくに外に散策に出てしまっていた。
大体、みんな夕餉はちゃんと食べたのだ。そんなに腹が減っているわけではない。
「………いい加減になさい。二人とも意地汚いですよ」
見かねた弥勒が、口を挟んだ。だが不幸なことに、それはかえって事態を悪化させる要因にしかならなかった。
「あ……ごめん。弥勒様に頼まれたブランデーも、あっちに置いてきちゃった。せっかくじいちゃんに買ってもらったのに」
「何ですとっ?」
その言葉に、急に眼の色を変える不良法師。実は彼もかごめが持ち込む洋酒を、かなりなとこ気に入っているのだ。
「てめえも十分意地汚ねえじゃねえか!」
「うるさい!」
結局、犬夜叉と低次元の言い争いになってしまう。そのうち、口ではすまずにどちらからともなく手が出た。いさかいはどんどんエスカレートしていく。
「ええい! けんかなら外でやれ! うざい!」
珊瑚の罵声に、ついに二人は外に追い出された。まあ、それもいたしかたあるまい。こんな所で大の男が取っ組み合ったら、粗末な家はあっという間に崩壊しかねないのだから。
「まったく…何だろねえ、こいつら」
あきれてその場にしゃがみ込んでしまった珊瑚だった。
そんな仲間の様子に、かごめは無意識に笑みを浮かべていた。
“ああ………此処が、あたしの場所だ。あたしの世界だ………”
今となっては現代よりもしっくりとなじんでしまったこの時代。
けれどいつまでも、この状態が続くわけではない。選択の時は迫っている。
“犬夜叉は、人間として生きることを選ぶんだろうか? それとも完全な妖怪になるために四魂の玉を使おうとするのかな?………”
あちらの世界のように、桔梗の手を取る可能性も、ある。
あるいは半妖のまま、想い人の生涯に連れ添うのだろうか? ─── だがその場合には、必ず別離が訪れることになる。人と妖の時の流れは異なるものだから。
どちらにしろ、四魂の玉がなければ現代と戦国時代を行き来することは不可能だ。玉を浄化したら、隧道は閉ざされることになる。
“あたしは、『その時』が来たらどうするんだろう?……”
かごめの選択は、まだ為されていない。
―――― 無数にある可能性の中で、未来はまだ不確定の要素に満ちていた。
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