『パーラ』ラルフ・イーザウ
(あすなろ書房刊)
上下巻の児童書です。同じ作者の『ネシャン・サーガ』はいまいち物語の中に入って行けませんでしたが、こちらはすんなり溶け込めました。たぶん『モモ』や『不思議の国のアリス』っぽい雰囲気が漂ってるせいでしょう。もっとも主人公の少女パーラは仲間とはぐれ一人になっても孤独に負けず戦う前向きで勇敢な少女ですが。(アリスは戦うんじゃなくて状況に流されるタイプだったと思う)
時間泥棒ならぬ言葉泥棒のことば狩り、失われる言葉の力、詩人の町を沈黙の町に変えようとしているジットの正体は?
読者は主人公パーラに感情移入してハラハラしながらこの冒険の終わりを読むべくページをめくるでしょう。言葉遊びがやたらと多いので、翻訳者は大変だったと思います。ドイツ語で韻を踏んでても、そのまま日本語に訳すと全然重ならない言葉になっちゃうし。訳者の力量と語彙が試される本ですね。
で、一番心に残ったシーンですが、ジットに捕われたパーラの言葉、痛烈でした。
最高の者になりたい、自分が一番でありたい、と考えたら芸術家になんかなっちゃいけないのです。政治家か軍人になれば答えは出たのに、詩人を職業に選んだせいでジットは道を踏み外してしまったのです。
私にしても、ピカソやゴッホの絵をいくら人が誉めようと、高い値段がついていようと、欲しいとは思いませんし、飾りたいとも思えません。芸術の分野では、人の評価は様々です。その人の育ってきた環境や性格も影響します。誰かが良いと言っても、皆が同意できるとは限りません。
「あなたを誉めた人達が正しくて、あなたの弟子を認めた人達が間違ってる」なんてことはないのです。絶対に。
だのにジットはそれが我慢できなくて、弟子が評価されるようになると弟子の作品を奪い自分のものとして発表してしまった。それがばれたことで名声を失うと、自業自得なのに彼は認めたくなかった。自分だけが言葉の力を独り占めできる世界に変えようとたくらんだ。
ううう、何もそこまで事を大きくしなくても、と読んでて頭抱えたくなりましたよ。でも、こうしたジットの思いって、誰しも少しぐらいは感じたことあるんじゃないでしょうか。だからパーラもジットを憎めなかった、そんな気がします。殺されそうになっても、パーラはジットを哀れんでいたのです。
いやぁ、これ児童文学でなくて、ジットが老人の描写されてなかったらどうなっていたでしょうね? ちょっとやばいっつーか、倒錯した愛の世界に入りそうでした。二人とも自分たちの力量を互いに認め、相手を理解しているあたりがうむむむ、やばそう。
もしジットの外見が若かったら、少女であるパーラと恋に落ちそうで、うわー、でしたわ。児童文学なので、ジットは最後まで老人の外見でしたが。